
武者小路実篤、志賀直哉、夏目漱石、芥川龍之介、石川啄木、島崎藤村、森鴎外、岸田劉生、高村光太郎、棟方志功。
これら一度は耳にしたことがあり、歴史の教科書でもみたことがある日本文学、美術を代表する偉人たちは、雑誌・白樺の存在をもとに交流を深めていました。
そして、その輪の中心にいた人物がいます。柳宗悦です。
柳宗悦は、激動の明治、大正、昭和期を生きた宗教哲学者であり、美術評論家であり、「民藝」の生みの親であり、数々の作者と作品を世に送り出した総合プロデューサーでした。
この記事では、西岡文彦氏著書の「柳宗悦の視覚革命」と日本民藝館監修「柳宗悦 民藝 美しさを求めて」の内容をもとに 柳宗悦の功績を概観した後、 柳宗悦の西洋美術観と民藝との出会いについて解説します。
これら一度は耳にしたことがあり、歴史の教科書でもみたことがある日本文学、美術を代表する偉人たちは、雑誌・白樺の存在をもとに交流を深めていました。
そして、その輪の中心にいた人物がいます。柳宗悦です。
柳宗悦は、激動の明治、大正、昭和期を生きた宗教哲学者であり、美術評論家であり、「民藝」の生みの親であり、数々の作者と作品を世に送り出した総合プロデューサーでした。
この記事では、西岡文彦氏著書の「柳宗悦の視覚革命」と日本民藝館監修「柳宗悦 民藝 美しさを求めて」の内容をもとに 柳宗悦の功績を概観した後、 柳宗悦の西洋美術観と民藝との出会いについて解説します。
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1.柳宗悦の功績
まずは、柳宗悦の生涯を振り返りながら、柳宗悦の功績を辿ります。
柳宗悦は、明治22年1889年に現東京都港区に海軍の父のもと生まれました。
父が海軍将校であったことからも格式の高い家柄で、学習院高等科を卒業後は、雑誌・白樺の創刊に参加。その後、東京帝国大学を卒業し、宗教哲学者としての道を歩むことになります。
雑誌・白樺は、白樺派という言葉も生まれるなど、日本文学、美術の中心的存在となり、多くの文人、芸術家が、その創刊に携わりました。
白樺の信条は、権威主義や軍国主義を嫌い、キリスト教などに影響を受けながら、個性や自己を重視する西洋の考え方に傾いていました。白樺の有志数名がオーギュスト・ロダンに手紙を送り、お礼としてブロンズ像3体が日本にもたらされた際には、有志一同熱狂したのです。
そのロダンのブロンズ像を一目見ようと柳のもとを訪れた朝鮮陶磁器の研究者・浅川伯教(のりたか)によってもたらされた李朝の白磁に柳は魅了されます。この李朝白磁との出会いが、柳にとって「民藝」との出会いであり、大きな転機となるのでした。
当時、日本の植民地であった朝鮮半島の文化保護に努め、朝鮮民族美術館を開設します。
柳宗悦は、明治22年1889年に現東京都港区に海軍の父のもと生まれました。
父が海軍将校であったことからも格式の高い家柄で、学習院高等科を卒業後は、雑誌・白樺の創刊に参加。その後、東京帝国大学を卒業し、宗教哲学者としての道を歩むことになります。
雑誌・白樺は、白樺派という言葉も生まれるなど、日本文学、美術の中心的存在となり、多くの文人、芸術家が、その創刊に携わりました。
白樺の信条は、権威主義や軍国主義を嫌い、キリスト教などに影響を受けながら、個性や自己を重視する西洋の考え方に傾いていました。白樺の有志数名がオーギュスト・ロダンに手紙を送り、お礼としてブロンズ像3体が日本にもたらされた際には、有志一同熱狂したのです。
そのロダンのブロンズ像を一目見ようと柳のもとを訪れた朝鮮陶磁器の研究者・浅川伯教(のりたか)によってもたらされた李朝の白磁に柳は魅了されます。この李朝白磁との出会いが、柳にとって「民藝」との出会いであり、大きな転機となるのでした。
当時、日本の植民地であった朝鮮半島の文化保護に努め、朝鮮民族美術館を開設します。
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加えて、日本国内では、木喰仏や京都の朝市で下手物と出会い、ますます民芸運動に熱狂していきます。
民藝運動の集大成として、日本民藝協会を発足、そして大原孫三郎の資金援助もあり、日本民藝館が開設されるまでに至るのでした。
民藝運動の集大成として、日本民藝協会を発足、そして大原孫三郎の資金援助もあり、日本民藝館が開設されるまでに至るのでした。
写真左:ロダンから贈られたブロンズ像3体(大原美術館収蔵)
写真右:日本民芸館
写真右:日本民芸館
2.柳宗悦の西洋美術観
次に柳宗悦の西洋美術観に触れたいと思います。
柳は、もともと民藝の父である前に、若かりし頃は、西洋芸術鑑賞の父と言われ、西洋美術に酔いしれていました。
まず、若かりし頃の柳の西洋芸術観の背景には、大逆事件の衝撃があります。 大逆事件は、社会主義者・幸徳秋水ら思想家が皇室関係者に危害を加えようとした罪・大逆罪により、非公開裁判により、証拠不十分のまま死刑判決を受けた暗黒裁判です。
大逆事件は、大衆による思想への暴力であり、表現者、発信者は、大衆による暴力の前に意識的な沈黙をせざるを得ない状況となりました。 この暴挙とも言える大逆事件を容認した大衆は、現状維持の保守的思考が強く、斬新な思想や実験的な試みが拒絶される傾向にあり、柳はこれに大きく反発しました。
また、もともと白樺はじめ、柳自身も軍国主義には、反対しており、徴兵令も下る世の中で、個人の為の生と国家の為の死との甚だしい分離を突きつけられた青年たちに対し、柳は、芸術論を介して、個人の人生を肯定し謳歌することを説きました。
この柳の境遇の前に現れたマネやセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ロダンといった、天才的で偉大な個性をもって、愚かで無理解な大衆の世界と一線をかくす彼らの世界観に柳が夢中になることは必然でした。これらセザンヌやゴーギャン、ゴッホたちの斬新さもヨーロッパ芸術界では、当時、批判の的となっており、彼らの境遇と柳自身も重なる部分を感じていたことは事実でしょう。
加えて、学習院高等科時代に交流のあった哲学者・西田幾太郎の「善の研究」の影響も大いに受けました。
西田哲学の背後には、禅がありました。 禅の本質は、自己の内面的な要求を真摯に追求することであるというのが当時の柳の解釈でした。
「善の研究」にある、真の善とは、真の自己を知ることである。
東洋、南洋、アフリカへの植民地支配を続けていたヨーロッパにおいて、ゴッホが異郷の日本、浮世絵に熱中したように、ゴーギャンが未開の地タヒチで蛮民を描いたように、ゴッホやゴーギャンは、ヨーロッパ美術が喪失しようとしていた活力をその未開性、原始性、野蛮性に求め、白樺のメンバーもこれらの作品に熱狂しました。この未開性、原始性、野蛮性であるオリエンタリズムの考えは、植民地支配が前提となっていて、欲望的で収奪的な暴力性、非人間性の体現とも言えるのです。
当時、日本が植民地支配していた朝鮮に対して、興味を抱いた柳にもそういった面があったであろうことは否めません。柳自身、明治日本植民地主義の搾取的枠組みを脱しきれていなかったものと思われます。柳が朝鮮美術を悲哀の美と評し、朝鮮の人々の受難を美化していたのではないかと批判されることもしばしばありました。
柳は、もともと民藝の父である前に、若かりし頃は、西洋芸術鑑賞の父と言われ、西洋美術に酔いしれていました。
まず、若かりし頃の柳の西洋芸術観の背景には、大逆事件の衝撃があります。 大逆事件は、社会主義者・幸徳秋水ら思想家が皇室関係者に危害を加えようとした罪・大逆罪により、非公開裁判により、証拠不十分のまま死刑判決を受けた暗黒裁判です。
大逆事件は、大衆による思想への暴力であり、表現者、発信者は、大衆による暴力の前に意識的な沈黙をせざるを得ない状況となりました。 この暴挙とも言える大逆事件を容認した大衆は、現状維持の保守的思考が強く、斬新な思想や実験的な試みが拒絶される傾向にあり、柳はこれに大きく反発しました。
また、もともと白樺はじめ、柳自身も軍国主義には、反対しており、徴兵令も下る世の中で、個人の為の生と国家の為の死との甚だしい分離を突きつけられた青年たちに対し、柳は、芸術論を介して、個人の人生を肯定し謳歌することを説きました。
この柳の境遇の前に現れたマネやセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ロダンといった、天才的で偉大な個性をもって、愚かで無理解な大衆の世界と一線をかくす彼らの世界観に柳が夢中になることは必然でした。これらセザンヌやゴーギャン、ゴッホたちの斬新さもヨーロッパ芸術界では、当時、批判の的となっており、彼らの境遇と柳自身も重なる部分を感じていたことは事実でしょう。
加えて、学習院高等科時代に交流のあった哲学者・西田幾太郎の「善の研究」の影響も大いに受けました。
西田哲学の背後には、禅がありました。 禅の本質は、自己の内面的な要求を真摯に追求することであるというのが当時の柳の解釈でした。
「善の研究」にある、真の善とは、真の自己を知ることである。
「道徳は自己の外でなく自己にある。」
「公衆の眼を喜ばさんが為に自己を曲ぐる愚。
芸術とは、公衆の眼を喜ばす可きものに非ず」
東洋、南洋、アフリカへの植民地支配を続けていたヨーロッパにおいて、ゴッホが異郷の日本、浮世絵に熱中したように、ゴーギャンが未開の地タヒチで蛮民を描いたように、ゴッホやゴーギャンは、ヨーロッパ美術が喪失しようとしていた活力をその未開性、原始性、野蛮性に求め、白樺のメンバーもこれらの作品に熱狂しました。この未開性、原始性、野蛮性であるオリエンタリズムの考えは、植民地支配が前提となっていて、欲望的で収奪的な暴力性、非人間性の体現とも言えるのです。
当時、日本が植民地支配していた朝鮮に対して、興味を抱いた柳にもそういった面があったであろうことは否めません。柳自身、明治日本植民地主義の搾取的枠組みを脱しきれていなかったものと思われます。柳が朝鮮美術を悲哀の美と評し、朝鮮の人々の受難を美化していたのではないかと批判されることもしばしばありました。
写真左:西田幾多郎
写真右:ゴーギャン作「タヒチの女」
写真右:ゴーギャン作「タヒチの女」
3.民藝との出会い
そして、柳宗悦は、民藝に出会いました。
西洋美術に酔いしれていた柳は、のちにこう述べています。
ロダンのブロンズ像を見に訪れた浅川伯教のお土産としてもたらされた李朝白磁との出会いにより、柳は、民藝に開眼しました。民藝とは対照的な西洋美術に心酔していた柳の視線を東洋工芸に転じさせたのです。
この無名の作陶家が制作した何の変哲もない白磁の壺について柳は、
鑑賞は、創作であり、見ることは、創造すること。見る眼は知る心よりも勝る。
直観、すなわち、世評や由緒や知識や価格で判断するのではなく、まず見てその後に知る。
かつて、自己の内面的な要求を真摯に追求することに禅の本質を見出した柳でしたが、禅とは、あるがままの本質を見ることであると新たな境地に至るのでした。
続けて柳は、西洋美術と民藝の違いについて言及しています。
王室と教会による支配を打倒した17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ各地での市民革命以降、開かれた近代では、それまで王権や教権の権威の象徴として、王室や教会に設置されていた美術品を美術館に展示することで、権威の象徴としての美術品ではなく、純粋に美術を鑑賞するという習慣が西洋美術の中で生み出されていました。
ただ、もともと美術品は、王室や教会に設置される神聖な超越的な存在であったため、その美術品を収蔵する美術館は、そのエピファニー(神聖性や超越性)の聖域という感覚が市民にもありました。
なので、現代でも美術とは、日常性や実用性を否定した、どこか非日常の神聖なイメージが皆様の中にもあるかと思います。
19世紀後半から開催されたパリ万博に参加した明治政府が、フランスの美術行政に感銘を受け、工芸と美術を分け、美術を特別、保護したことも美術と工芸・民藝との優劣を鮮明にすることになるのでした。
しかし、この工芸・民藝は、神聖な美術に劣るという風潮の中で、柳は、美の本質をインティマシー(親しみ)に見出します。
心優しく身近に寄り添う日用品への情愛、愛着こそが、用の美であり、日常生活におけるエピファニーであると述べています。
西洋美術に酔いしれていた柳は、のちにこう述べています。
「天才の偉大な個性の讃美は大衆への否定を意味する。民衆の幸福のためには、天才讃美は克服され、個人主義は、崩壊させなければならない。英雄的な教養主義に心酔している限り、殺戮を文明とする西欧的な選民思想の色彩を帯び、その言説に植民地主義的な粗暴さを含んでしまう。」
芸術が愚かな大衆に受け入れられる無意味を説き、無理解な大衆を敵とみなしていた若き日の柳とは対照的な近代個人主義への反省の弁を述べています。ロダンのブロンズ像を見に訪れた浅川伯教のお土産としてもたらされた李朝白磁との出会いにより、柳は、民藝に開眼しました。民藝とは対照的な西洋美術に心酔していた柳の視線を東洋工芸に転じさせたのです。
この無名の作陶家が制作した何の変哲もない白磁の壺について柳は、
「些細事と見做して寧ろ軽んじた陶器等の形状に眼を開かれ、事物の形状は無限だという単純な真理が自分にとって新しい神秘となった。ひとつの器に人間の温かみ、高貴、荘厳を読み得ようとは昨日まで夢みだにしなかった」
この体験は、柳にとって視線の革命でした。鑑賞は、創作であり、見ることは、創造すること。見る眼は知る心よりも勝る。
直観、すなわち、世評や由緒や知識や価格で判断するのではなく、まず見てその後に知る。
かつて、自己の内面的な要求を真摯に追求することに禅の本質を見出した柳でしたが、禅とは、あるがままの本質を見ることであると新たな境地に至るのでした。
続けて柳は、西洋美術と民藝の違いについて言及しています。
王室と教会による支配を打倒した17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ各地での市民革命以降、開かれた近代では、それまで王権や教権の権威の象徴として、王室や教会に設置されていた美術品を美術館に展示することで、権威の象徴としての美術品ではなく、純粋に美術を鑑賞するという習慣が西洋美術の中で生み出されていました。
ただ、もともと美術品は、王室や教会に設置される神聖な超越的な存在であったため、その美術品を収蔵する美術館は、そのエピファニー(神聖性や超越性)の聖域という感覚が市民にもありました。
なので、現代でも美術とは、日常性や実用性を否定した、どこか非日常の神聖なイメージが皆様の中にもあるかと思います。
19世紀後半から開催されたパリ万博に参加した明治政府が、フランスの美術行政に感銘を受け、工芸と美術を分け、美術を特別、保護したことも美術と工芸・民藝との優劣を鮮明にすることになるのでした。
しかし、この工芸・民藝は、神聖な美術に劣るという風潮の中で、柳は、美の本質をインティマシー(親しみ)に見出します。
心優しく身近に寄り添う日用品への情愛、愛着こそが、用の美であり、日常生活におけるエピファニーであると述べています。
「生活に交わる無銘の雑器にこそ非凡な美が宿る」
「日々の生活の友である陶磁器に神秘と永遠を感じる」
「偉大な凡庸」
「個性の小さな室を出て民衆に自らを投じ、そこに生命を見出すことにより、自らでは成し得ない異常な仕事を成し遂げる」





