
白壁の街並みが美しく今も大人の観光地として人気の岡山県倉敷市美観地区。
その中心にそびえる大原美術館は、倉敷の歴史と芸術とともに現代まで歩んできました。
かつて、この倉敷を「東洋のエルサレム」にしようと挑戦した親子がいました。大原孫三郎・總一郎父子です。
この記事では、兼子麗子氏著書「大原孫三郎の社会文化貢献」と矢代幸雄氏著書「藝術のパトロン」の内容をもとに、
大原父子が目指した「東洋のエルサレム」について、
「民」としての孫三郎の活動について、
そして、大原父子の文化論について、
最後に、大原美術館創設、そして・總一郎による発展について解説したいと思います。
その中心にそびえる大原美術館は、倉敷の歴史と芸術とともに現代まで歩んできました。
かつて、この倉敷を「東洋のエルサレム」にしようと挑戦した親子がいました。大原孫三郎・總一郎父子です。
この記事では、兼子麗子氏著書「大原孫三郎の社会文化貢献」と矢代幸雄氏著書「藝術のパトロン」の内容をもとに、
大原父子が目指した「東洋のエルサレム」について、
「民」としての孫三郎の活動について、
そして、大原父子の文化論について、
最後に、大原美術館創設、そして・總一郎による発展について解説したいと思います。
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1.東洋のエルサレム
大原美術館を創設し、発展させてきた大原孫三郎・總一郎の美術愛はもっと大きい人類愛への貢献という大理想のほんの一部でした。
「倉敷を東洋のエルサレムにする」という決意も人類愛の強い思いによるものでした。
孫三郎は、この人類愛を石井十次との出会いにより、育みました。
石井十次は、医師として、岡山孤児院を創設し、多くの戦争孤児を救済した「児童福祉の父」と呼ばれた人物です。孫三郎もこの岡山孤児院を資金面で支援し、石井十次との交流を深めました。
石井十次との出会いにより育まれた人類愛は、以降の孫三郎の活動の原動力となっていきます。
当時、劣悪な環境での労働を強いられていた人々を救いたいと設立された倉敷労働科学研究所及び大原社会問題研究所。農業開発により、人々の暮らしを農業から豊かにしようと設立された大原農業研究所。患者により開放感あふれる空間でゆっくりと静養頂こうと設立された 倉敷中央病院。そして、市民により文化的な教養を身に着けてもらおうと行っていた、大原美術館創設のきっかけともなる倉敷日曜講演会。
これらの活動を通じて、目指した「東洋のエルサレム」とは、精神的に高いレベルで成熟した市民社会を指したものでした。
戦後、これら社会事業は、總一郎の代で時勢の変化によって手放さなければならなくなりました。
政府機関や大学組織、財団法人など、他の機関にその意思は受け継がれ、活動母体としては、大原家と袂をわかつことになりましたが、これらが次の機関に受け継がれたのも、ひとえに大原父子の活動がどれも日本及び人類にとって意義があったからこそ、世間もその意義が失われないように協力し、関係者が骨を折ったからこそなしえたことなのです。 唯一、大原美術館だけは、財団法人にはなりましたが、運営は、大原家として継承されるのでした。
孫三郎は、この人類愛を石井十次との出会いにより、育みました。
石井十次は、医師として、岡山孤児院を創設し、多くの戦争孤児を救済した「児童福祉の父」と呼ばれた人物です。孫三郎もこの岡山孤児院を資金面で支援し、石井十次との交流を深めました。
石井十次との出会いにより育まれた人類愛は、以降の孫三郎の活動の原動力となっていきます。
当時、劣悪な環境での労働を強いられていた人々を救いたいと設立された倉敷労働科学研究所及び大原社会問題研究所。農業開発により、人々の暮らしを農業から豊かにしようと設立された大原農業研究所。患者により開放感あふれる空間でゆっくりと静養頂こうと設立された 倉敷中央病院。そして、市民により文化的な教養を身に着けてもらおうと行っていた、大原美術館創設のきっかけともなる倉敷日曜講演会。
これらの活動を通じて、目指した「東洋のエルサレム」とは、精神的に高いレベルで成熟した市民社会を指したものでした。
戦後、これら社会事業は、總一郎の代で時勢の変化によって手放さなければならなくなりました。
政府機関や大学組織、財団法人など、他の機関にその意思は受け継がれ、活動母体としては、大原家と袂をわかつことになりましたが、これらが次の機関に受け継がれたのも、ひとえに大原父子の活動がどれも日本及び人類にとって意義があったからこそ、世間もその意義が失われないように協力し、関係者が骨を折ったからこそなしえたことなのです。 唯一、大原美術館だけは、財団法人にはなりましたが、運営は、大原家として継承されるのでした。
写真左:石井十次
写真右:大原美術館
写真右:大原美術館
2.「民」としての孫三郎の活動
孫三郎の社会貢献事業の根底には、民衆「民」重視の姿勢がありました。
孫三郎は、地域社会との関わり合いを常に念頭に入れながら社会的事業を遂行しました。 全ては地域とそこに住む「民」のための活動でした。 お役所の仕事は、ともすれば、国や地方自治体という組織のための仕事であって、われわれ民のためという意識が希薄になりがちなのに対して、民により近い存在である民間組織が地域のために民間の立場からリーダーシップを発揮して社会貢献活動を展開することに意味があると孫三郎は考えていました。 国や地方自治体のみに依存する社会では、なんとも自由や発展、希望、活力のない社会と化してしまうことでしょう。
そんな孫三郎は、柳宗悦の民藝運動に共感します。 柳宗悦は、以前の記事でも解説した通り、「民藝の父」と呼ばれ、「民」による手仕事の作品を世に広めた活動家です。
柳の民重視、地域重視、そして権威主義や軍国主義などの社会の価値観に流されない強い信念は、 孫三郎と通じるものがあり、孫三郎は、当時、柳が創設を目指していた日本民藝館の建築資金10万円を寄付することで、日本民芸館の開設に大いに貢献するのでした。
民藝は、貴族的な美術品とは対照的な民衆性、実用性、多量性、低廉性、職人性に加え、地域性、民族性(風土、歴史、生活)を重視し、個性ある地域を全面に押し出すものでした。
当時、中央集権の近代化を推し進める世相に逆行するかたちではありましたが、
孫三郎は、地域社会との関わり合いを常に念頭に入れながら社会的事業を遂行しました。 全ては地域とそこに住む「民」のための活動でした。 お役所の仕事は、ともすれば、国や地方自治体という組織のための仕事であって、われわれ民のためという意識が希薄になりがちなのに対して、民により近い存在である民間組織が地域のために民間の立場からリーダーシップを発揮して社会貢献活動を展開することに意味があると孫三郎は考えていました。 国や地方自治体のみに依存する社会では、なんとも自由や発展、希望、活力のない社会と化してしまうことでしょう。
そんな孫三郎は、柳宗悦の民藝運動に共感します。 柳宗悦は、以前の記事でも解説した通り、「民藝の父」と呼ばれ、「民」による手仕事の作品を世に広めた活動家です。
柳の民重視、地域重視、そして権威主義や軍国主義などの社会の価値観に流されない強い信念は、 孫三郎と通じるものがあり、孫三郎は、当時、柳が創設を目指していた日本民藝館の建築資金10万円を寄付することで、日本民芸館の開設に大いに貢献するのでした。
民藝は、貴族的な美術品とは対照的な民衆性、実用性、多量性、低廉性、職人性に加え、地域性、民族性(風土、歴史、生活)を重視し、個性ある地域を全面に押し出すものでした。
当時、中央集権の近代化を推し進める世相に逆行するかたちではありましたが、
「時代を前に戻すべきではなく、未来を切り開かねばならないのです。用と美とを一致せしめ、自由と伝統とを調和せしめるために、過去の歴史から学ぶ可きことは非常に多くあるのです。」
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手芸・工芸の地位を上げた「民藝」の生みの親・柳宗悦の哲学
3.大原父子の文化論
市民の文化的教養を深めるために倉敷日曜講演がはじめられ、この活動が、のちに大原美術館創設に大きく関わったことは、先にも述べました。
では、孫三郎は、どのような文化的価値観を持っていたのでしょうか?
そして、總一郎はどうだったのでしょうか?
大原美術館は、日本最初の本格的な西洋美術館であり、大原美術館創設は、「文化の種まき」の為に行われました。そして、この文化の種まきは、一刻も早く行わなければならないと孫三郎は常々発言していました。
自己中心的な資本主義へと進もうとしていた近代日本の中にあって、このままでは、美しい社会を期待することはできない。
生命があり、愛と喜びに満ち溢れた社会を打ち立てるために社会の根底に美術を置くことが必要である。 健全な社会には偉大なる美術が必要である。
と孫三郎は考えていました。
文化とは平和な時には力を発揮しますが、政治の混乱に押しつぶされてしまう傾向が大きい要素であり、ひとたび平和のバランスが崩れると政治の力に敗退してしまいます。
民芸運動をともにした柳宗悦も我々人間の優先課題は、文化、環境、自然を尊重する共存と平和の希求であるとし、真の富は、文化にあると主張していました。
どれだけ経済発展を遂げ、多くのお金を手にしたとしても、真の貧富は、自分たちのことばかり考えるのではなく、人類愛、絶対平和、地域、多元性、多文化性を大切にする文化価値を持っているかに掛かっている。
裏を返せば、経済力という概念に固執しなくとも、品位を持った有力な国として尊重されるようになる道があると現代日本にも通じる警鐘を鳴らしているのでした。
加えて、孫三郎と柳には、自然を尊重する点も共通していました。
自然を破壊してまでも成長しようとする欧米の近代自然観は持ち合わせておらず、事業を行うにあたり、地域環境、社会環境同様、自然環境とも調和することを目指していました。
孫三郎が、足尾銅山鉱毒事件に憤慨したことからもこの点が伺えます。
息子・總一郎もこの点、自然を深く尊重しており、自然と芸術を絡めて、次の発言からも總一郎の自然観がうかがえます。
では、孫三郎は、どのような文化的価値観を持っていたのでしょうか?
そして、總一郎はどうだったのでしょうか?
大原美術館は、日本最初の本格的な西洋美術館であり、大原美術館創設は、「文化の種まき」の為に行われました。そして、この文化の種まきは、一刻も早く行わなければならないと孫三郎は常々発言していました。
自己中心的な資本主義へと進もうとしていた近代日本の中にあって、このままでは、美しい社会を期待することはできない。
生命があり、愛と喜びに満ち溢れた社会を打ち立てるために社会の根底に美術を置くことが必要である。 健全な社会には偉大なる美術が必要である。
と孫三郎は考えていました。
文化とは平和な時には力を発揮しますが、政治の混乱に押しつぶされてしまう傾向が大きい要素であり、ひとたび平和のバランスが崩れると政治の力に敗退してしまいます。
民芸運動をともにした柳宗悦も我々人間の優先課題は、文化、環境、自然を尊重する共存と平和の希求であるとし、真の富は、文化にあると主張していました。
どれだけ経済発展を遂げ、多くのお金を手にしたとしても、真の貧富は、自分たちのことばかり考えるのではなく、人類愛、絶対平和、地域、多元性、多文化性を大切にする文化価値を持っているかに掛かっている。
裏を返せば、経済力という概念に固執しなくとも、品位を持った有力な国として尊重されるようになる道があると現代日本にも通じる警鐘を鳴らしているのでした。
加えて、孫三郎と柳には、自然を尊重する点も共通していました。
自然を破壊してまでも成長しようとする欧米の近代自然観は持ち合わせておらず、事業を行うにあたり、地域環境、社会環境同様、自然環境とも調和することを目指していました。
孫三郎が、足尾銅山鉱毒事件に憤慨したことからもこの点が伺えます。
息子・總一郎もこの点、自然を深く尊重しており、自然と芸術を絡めて、次の発言からも總一郎の自然観がうかがえます。
「すべての芸術は、結局自然を深く愛し、これをよく解することから根差している。
音楽の中に、いかに多くの鳥の啼き声がおのずから取りいれられているかに驚く。
ピカソやルオーの芸術が、あれほどの力強さを持って観る者を圧倒してくるのも、その写実超越の奥に、一度は深く自然の奥の構成をしっかり掴みとる研究をしたからこそであって、単なる空想的抽象や超自然ではない。
物事はすべて自然の法則に従い、自然からじかに出たものでなければ、本当でない。科学はむろんのこと、産業も芸術も自然から築き上げたものを尊ぶ」
写真左:大原孫三郎
写真右:大原總一郎
写真右:大原總一郎
4.大原美術館創設と発展
最後は、大原美術館の創設と発展についてです。
大原美術館は、画家・児島虎次郎がヨーロッパ留学中に買い集めた作品を虎次郎亡き後に展覧する場として、創設されました。
児島虎次郎は、かの石井十次が人間的に素晴らしい人物であると孫三郎に引き合わせた画家です。
孫三郎自身もすぐに虎次郎の人間性含めてほれ込み、以来、虎次郎に対し、惜しみなく支援を続けました。
3度にわたり、ヨーロッパへ留学し、その際に、虎次郎は自らの目利きで西洋絵画を買い集めたのでした。
買い集めた絵画は、接待や自分自身が見て楽しむためのものではなく、日本の画学生や広く人々の文化的教養を深めるために収集されたのです。
もともと孫三郎の家には、父・孝四郎が収集した浦上玉堂の書画を多く所蔵しており、また茶器の名品などがありました。 こういった背景からも、また孫三郎自身も支那の古美術を好み、収集していたため、東洋美術については、造詣がありましたが、西洋画については、あまり自信がなく、東洋美術に対して払った努力や歳月を思えば、虎次郎に任せきりで、あまりに短い歳月で集められた西洋画にそれほどの価値があるとは、半信半疑なところがあったようです。
しかし蓋を開けてみれば非常に称賛され、人々が遠くから見物に来る様子を見ると自分が心血を注いで作ったものは、案外世の中に認められず、他のものと比べれば深く考えなかった美術館が一番好評を博するとは、「世の中は皮肉なものだ」と述懐していました。
父・孫三郎から大原美術館の運営を引き継いだ息子・總一郎は、「大原ルネサンス」として、大原美術館の機能拡大を進めていきました。
總一郎は、孫三郎の素質をよく受け継ぎながら、感覚は全く近代的に新鮮であり、趣味も教養ももっと西洋的、或いは世界的であったから、世界的視野と新しい魂とを大原美術館に吹き込んで、堂々たる文化事業体系をかたちづくっていきました。
従来、大原美術館に展示してあった作品は、時代に取り残されつつあり、 そんな中、進歩と革新を追求し、過去の巨匠の作品収集だけに終わるのではなく、あまりに時代に遅れてきたものは引っ込め、有力なる新作、時代の証人となる現代作品も積極的に加えることで、新たな生命を力強く吹き込み、開かれた生きている大原美術館へと変革させていきました。
美術に個性がなくてはならないことは、個々の作品においても、美術館運営においても同じです。美術館運営に總一郎の個性を存分に発揮できたことは、私立美術館だからこそなせるわざだったのでしょう。
戦争によって傷ついた日本の民衆を勇気づけるため、また戦争によって失墜した風格を取り戻すために、誇り高き「地方にある美術館」「民間の美術館」を目指した總一郎の挑戦、大原ルネサンスでした。
父・孫三郎は、人類愛の精神をもとに柳宗悦然り、児島虎次郎然り、多くの人を経済的に支援してきました。その結果として、柳宗悦の民藝活動による新たな芸術観の発見や児島虎次郎によってもたらされた西洋絵画による日本美術の発展など、真の芸術パトロン無くして、やはり芸術の発達は望めないということがよくわかります。
また、息子・總一郎にしても、単なる美術館ではなく、今なお、倉敷市街の中心的存在であるミュージアムとして、「創造都市」になるための礎を大原美術館から変革していったことは、現代のSDGsに通じる先見性があったと感じずにはいられません。
大原美術館は、画家・児島虎次郎がヨーロッパ留学中に買い集めた作品を虎次郎亡き後に展覧する場として、創設されました。
児島虎次郎は、かの石井十次が人間的に素晴らしい人物であると孫三郎に引き合わせた画家です。
孫三郎自身もすぐに虎次郎の人間性含めてほれ込み、以来、虎次郎に対し、惜しみなく支援を続けました。
3度にわたり、ヨーロッパへ留学し、その際に、虎次郎は自らの目利きで西洋絵画を買い集めたのでした。
買い集めた絵画は、接待や自分自身が見て楽しむためのものではなく、日本の画学生や広く人々の文化的教養を深めるために収集されたのです。
もともと孫三郎の家には、父・孝四郎が収集した浦上玉堂の書画を多く所蔵しており、また茶器の名品などがありました。 こういった背景からも、また孫三郎自身も支那の古美術を好み、収集していたため、東洋美術については、造詣がありましたが、西洋画については、あまり自信がなく、東洋美術に対して払った努力や歳月を思えば、虎次郎に任せきりで、あまりに短い歳月で集められた西洋画にそれほどの価値があるとは、半信半疑なところがあったようです。
しかし蓋を開けてみれば非常に称賛され、人々が遠くから見物に来る様子を見ると自分が心血を注いで作ったものは、案外世の中に認められず、他のものと比べれば深く考えなかった美術館が一番好評を博するとは、「世の中は皮肉なものだ」と述懐していました。
父・孫三郎から大原美術館の運営を引き継いだ息子・總一郎は、「大原ルネサンス」として、大原美術館の機能拡大を進めていきました。
總一郎は、孫三郎の素質をよく受け継ぎながら、感覚は全く近代的に新鮮であり、趣味も教養ももっと西洋的、或いは世界的であったから、世界的視野と新しい魂とを大原美術館に吹き込んで、堂々たる文化事業体系をかたちづくっていきました。
従来、大原美術館に展示してあった作品は、時代に取り残されつつあり、 そんな中、進歩と革新を追求し、過去の巨匠の作品収集だけに終わるのではなく、あまりに時代に遅れてきたものは引っ込め、有力なる新作、時代の証人となる現代作品も積極的に加えることで、新たな生命を力強く吹き込み、開かれた生きている大原美術館へと変革させていきました。
美術に個性がなくてはならないことは、個々の作品においても、美術館運営においても同じです。美術館運営に總一郎の個性を存分に発揮できたことは、私立美術館だからこそなせるわざだったのでしょう。
戦争によって傷ついた日本の民衆を勇気づけるため、また戦争によって失墜した風格を取り戻すために、誇り高き「地方にある美術館」「民間の美術館」を目指した總一郎の挑戦、大原ルネサンスでした。
父・孫三郎は、人類愛の精神をもとに柳宗悦然り、児島虎次郎然り、多くの人を経済的に支援してきました。その結果として、柳宗悦の民藝活動による新たな芸術観の発見や児島虎次郎によってもたらされた西洋絵画による日本美術の発展など、真の芸術パトロン無くして、やはり芸術の発達は望めないということがよくわかります。
また、息子・總一郎にしても、単なる美術館ではなく、今なお、倉敷市街の中心的存在であるミュージアムとして、「創造都市」になるための礎を大原美術館から変革していったことは、現代のSDGsに通じる先見性があったと感じずにはいられません。
写真:児島虎次郎






