本阿弥光悦が鷹峯光悦村で追い求めたもの   

大坂夏の陣が終わり、豊臣氏が滅んだ1615年。
この年、徳川家康は、一人の男に、京の都の北に位置する鷹峯という広大な所領を与えたと言われています。この地を拝領したのが、本阿弥光悦でした。
歴史上、日本を代表する芸術家でもある本阿弥光悦が、この鷹峯に築いた「光悦村」は、日本史上まれに見る芸術コミュニティとして語られています。
しかし、なぜ、徳川家康は、この広大な鷹峯の地を光悦に与えたのでしょうか?
そして、鷹峯を拝領した光悦は、どういった思いだったのでしょうか?
この記事では、第15代楽吉左衛門氏著書「光悦考」の内容をもとに 本阿弥光悦と鷹峯光悦村をめぐる真実を、
本阿弥家と法華町衆のDNA
日本の芸能に息づく身体性と型
“傾く”という反骨精神
この3つの視点から読み解きます。

動画での視聴はこちら


1.本阿弥家と法華町衆のDNA

本阿弥家とは、もともと足利将軍家にも仕えた刀剣の鑑定、研ぎを生業とする家柄です。
「家」とは、単なる血縁だけではありません。 それは、何世代にもわたって積み重ねられた価値観や誇り、尊厳、そして「恥」の感覚までをも含んだ、時間の層です。
個人は、その上に立っているにすぎず、自分という存在を越えて受け継がれていくものです。
そして、この本阿弥家を語る上で、欠かせないのが法華宗です。
本阿弥家は、熱心な法華宗信仰でした。法華宗はこう説きます。「娑婆即寂光浄土」、つまりは、商売家業や奉公に精進すれば、来世ではなく、現世である「寂光土」で救済されるということです。この思想は、当時の町衆を中心に熱狂的に広がり、やがて法華町衆という強固な信用ネットワークを形成していきます。
金融、流通、芸術―― それぞれが土倉衆、座頭衆などの「座」というシステムの中で法華宗の教えをもとに支え合う社会。
しかしその裏には、激しい対立がありました。 法華宗と一向宗、そして比叡山勢力。 宗教と経済が絡み合った争いの果てに起きた「天文法華の乱」。 この戦いで、法華町衆は壊滅的な敗北を喫します。 大量の血が流れた敗北。
しかし、法華町衆の「自らの職分を全うする」という信用ネットワークの精神は、滅びませんでした。そして、この法華町衆としての繋がりが、のちに鷹峯光悦村に集うことになるのです。

写真左:本阿弥光悦
写真右:法華宗と対立した比叡山延暦寺


2.身体性と型

本阿弥家が天文法華の乱に注ぎ込んだそのエネルギーと財力は、敗北後に文化芸術へと向けられることになります。
では、その光悦が考える「美」とは何なのでしょうか?
光悦の美について、、、の前に日本の芸能には、「身体性」と「型」があるという話をしなければなりません。身体性は、それが書であっても絵であっても茶碗、舞踊、音楽であっても、くねり、沈み込み、浮き上がり、よじれ、張り、緩み、ちぢみ、のび、漂う「揺らぎ」であり、時間軸の中で細部が揺らぎ続ける身体の軌跡です。
西洋の美は、論理によって組み立てられます。 イエスかノーか、明確な構造があります。
一方、日本には、「行間の世界」があります。論理の整合性を超えた、何も語られない、言語化のできない、実態のない行間や空白、言うなれば、気や息、呼吸に「実」を伴わない「真」があると信じる精神世界です。 この行間の世界の中で、作品の身体が揺らぎます。歪み、沈み、浮かび上がる。 そこには均一性はなく、無数の揺らぎが生まれます。
そして、その揺らぎを削り、抽象化する作業が「」です。
光悦は、鷹峯で楽吉左衛門家・二代目・常慶田中宗慶に作陶の手解きを受け、三代目・道入とも交流を深めるなど、楽吉左衛門家とは、同じ法華町衆として、鷹峯光悦村のご近所さんとして、以上の繋がりがありました。 楽茶碗の手捏ねは、まさに身体性の象徴です。轆轤や道具を使わず、両手で円形に延べた土を周辺部からゆっくりと締め起こしていく工程は、機械的でなく、細部がくねり、沈みこみ、浮き上がった揺らぎとなります。その身体を宿した手捏ねの原型をヘラで整えることで、揺らぐ身体の個性を捨象し、型へと昇華させていきます。

光悦の茶碗は、このプロセスが極めて強いです。 柔らかく手で包み込んだ個性的な曲線の身体に目を凝らし、張り出す曲線、端反る姿、切り立つ直線を強調するようにヘラで掘り起こすことで型へと昇華させます。 この強調された個性的な曲線フォルムが今もなお、人々を惹きつけ続けているのです。
光悦は、作陶を「家業体にするにあらず」と自らも述べるように、作陶でお金を得ようとは元々考えておらず、そう言う意味では、アマチュアであるとわきまえていました。
ただ、光悦のアマチュアリズムには、単に自己満足に陥るのではなく、文明の起源に通じる自然性を感じます。 手捏ねという触角性に委ねられた泥土との対話、そして鋭い視覚性をもとに形を削り極める作業。
のちに姻戚関係となる尾形光琳、乾山兄弟の活躍により、琳派の絵画や京焼などの色鮮やかな茶碗が生まれ、その後の浮世絵などが象徴するように、江戸の芸術は、目で見て明確に美しい視覚性の美意識に転換していきます。
光悦が生きた桃山時代は、言語化できない行間や身体性、型といった触角性の美意識が最も研ぎ澄まされた最後の時期と言えるかもしれません。

写真左:長次郎作の楽茶碗
写真右:光悦作の楽茶碗


3.“傾く”という反骨精神

本阿弥家にも天文法華の乱以来、「傾く」という反骨精神は、あったと思われます。
カブくとは、「傾く」と書きますが、それは単に器の形態を変形させるだけに留まらず、社会の常識として貫かれる中心から傾くこと、即ち、反抗や反逆、造反、狼藉、ふざけなど、常識にとらわれない自由闊達な精神であり、エネルギーです。 そして、そのエネルギーは、己のための表現を体現しようとしたからに他ありません。
光悦にしても、光悦の茶の湯の師匠・古田織部にしても、織部の師匠・千利休にしてもそうです。利休の茶の湯は、表現の鈍化を遂げ、すべてを削ぎ落とし、沈黙へと向かうことで長次郎の深々と黒い楽茶碗を生み出し、織部は、その沈黙を破壊し、遊びと逸脱を追い求めました。己のために己の心血を注いで、己が追い求める究極の茶や茶碗を体現しようとしていたからこそ、その純粋さが、周りの権力関係とも軋轢を生み、利休と織部については、反発や造反として、自刃に追い込まれました。

徳川家康は、光悦の反逆性も警戒していたのではないかと考えられます。だからこそ鷹峯を与えることで光悦を京から追いやったのではないかという説も通説になっています。
一方、光悦は、本阿弥家代々、権力に逆らうことの危険性を天文法華の乱の教訓から身に染みているので、鷹峯に移ることで、権力と適度に距離をとり、己のための創作活動を貫くという反抗を遂げたのではないでしょうか。 その全てが名利を求めない、純粋な創造意欲を原動力とする活動でした。純粋に自分が理想とする姿を追い求める。その理想の姿は、頭に描いた形ではなく、偶然と必然、意識と無意識、自然と人為、それらが溶け込み綾なす。 世俗とは適度に距離が保たれたこの鷹峯光悦村が、日本を代表する表現者・本阿弥光悦の反骨精神を成就させるためには必要だったのです。

写真左:古田織部
写真右:千利休