ドジャース・山本由伸選手出身!! 備前焼のふるさとを巡る   

緋襷牡丹餅胡麻。
土本来の風合いが全面に押し出され、釉薬を使わず、土を焼き固める「焼締め」では、神秘的な模様「窯変」が生まれ、一つとして同じ作品は生まれません。この焼き締めで最も有名な備前焼。
中世以降の古くから、独自の発展を遂げて来た陶器の産地、「六古窯」の一つであり、 かの天下人、豊臣秀吉は、茶の湯の席で備前焼の茶道具をこよなく愛しました。
また、美食家であり、陶芸家である北大路魯山人は、その美しさに惚れ込んだと言われます。

今回の記事では、
上西節雄氏著者、「日本のやきもの 窯別ガイド 備前焼」の内容をもとに
備前焼のルーツとされる地を巡るとともに、
備前焼繁栄と衰退の歴史を追いかけ
最後は、人間国宝・金重陶陽による備前焼再興に迫ります。

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1.備前焼のルーツ

まずは、備前焼のルーツを巡ります。
備前焼は、6世紀中頃に岡山県瀬戸内市長船で生産されていた須恵器にルーツを持ちます。
須恵器とは、古墳時代から、生活に用いられていた土器です。
その後、12世紀後半になると須恵器の生産拠点は、山を一つ越えた備前市伊部山麓に移りました。
これは、一つに長船地域の薪の不足が考えられます。平安時代後期から、備前長船地域では、刀剣の生産も盛んになり、薪不足が問題となったことが考えられます。
また、伊部の北西にそびえる熊山は、当時、山岳仏教の聖地であったことから、熊山の麓である伊部に移住し、熊山寺院の庇護を求めた可能性もあります。
ここ備前市伊部地区では、現在も備前焼の多くの窯元が軒を並べ、毎年10月第3土曜日、日曜日には、JR伊部駅前を中心に備前焼まつりが開催されて、多くの人で賑わいます。
ちなみに2025年アメリカ大リーグ・ワールドシリーズにおいて、MVPに選ばれたロサンゼルスドジャース・山本由伸選手は、ここ備前市伊部の出身で、JR伊部駅前にある備前市立伊部小学校に通っていました。

写真左:伊部南大窯跡
写真右:備前市立伊部小学校

平安時代から鎌倉時代へ移り変わるこの12世紀頃は、まだ、備前焼と呼べるものは誕生しておらず、須恵器生産で言えば、まだまだ、備前地域よりは、備中・亀山や美作・勝間田、播磨・魚住などの方が盛んでした。
これが鎌倉時代中期になると備前焼が確立され、生産と消費が伸び、須恵器生産は衰退しました。この頃、備前焼消費が伸びた要因としては、何といっても農業技術の発達が関係していて、壺やすり鉢、甕などのより特殊な形状の陶器が必要となったからであると考えられます。
発展を遂げた備前焼製品は、陸路として整備された山陽道片上湾吉井川の水運を介して、西日本各地に流通するようになりました。 鎌倉時代の地層からは、東は常滑焼、西は備前焼が多く出土していることからも備前焼の流通がうかがえます。
備前焼の記録として「一遍上人絵伝 福岡市」が挙げられます。市場で食料品を売るために食料品を入れた備前焼の壺や甕が並べられている様子が描かれています。
ちなみに福岡の市は、現在も瀬戸内市長船町福岡地区で毎月第4日曜日に開催されています。

写真左:片上湾
写真右:吉井川


2.備前焼繁栄と衰退の歴史

ここからは、室町時代から桃山時代にかけて繁栄を極めた備前焼の歴史と江戸時代以降衰退の道を辿った備前焼の歴史に焦点を当てます。
南北朝時代から室町時代にかけては、ますます、備前焼の大量生産、大量消費の時代となっていきます。
壺やすり鉢、甕が大量生産された室町時代から、桃山時代になると茶碗や水指、花入などの茶道具から、皿、徳利、銚子などの食器も生産されるようになりました。
多くの茶人にも備前焼は、愛用され、太閤・秀吉もその内の1人と言えます。 秀吉は、備前焼を愛するが故、備前焼が大量生産され、品質が下がることを憂い、一カ所の窯だけ残し、その他の窯は取り壊したという逸話も残っています。
しかし、一転して、江戸時代に入ると備前焼は、衰退していきます。京焼や有田焼、萩焼などの人気に押され、また、当時の備前焼の窯は、半官窯であったため、自由な創作活動が禁じられ、流通も藩により、制限されたことが一因であったと言われています。
ただ、衰退の中にあっても、備前焼のすり鉢は、丈夫であり、徳利は、「備前の徳利に唐津のぐい呑み」や「備前徳利は二級酒を一級酒にする」と称されるなど、評判は依然として高いものでした。
徳利は福山市鞆の浦の保命酒の容器として出荷されるようになり、また江戸時代後期から明治時代にかけては、宮獅子が各地の神社に寄進されるなど、明るいニュースもありました。
が、明治時代に入ると、備前焼は、ますます苦しい状況へと追い込まれていくのでした。廃藩置県により、藩から窯への援助が全くなくなったことに加え、明治維新により、西洋の文化が重要視される中で、日本の伝統文化であり、華やかでない備前焼の人気はますます、減少していきました。

写真左:保命酒
写真右:備前焼の宮獅子


3.備前焼再興

最後は、金重陶陽の登場、そして備前焼再興に迫ります。 大正に入ると備前市伊部地域にも変革の兆しが見え始めます。
それまでの共同窯とは違い、森琳三をはじめとした個人窯を開く人が現れ、1913年には、三村陶景が伊部陶器学校を開設しました。
そして同じ六古窯のひとつである愛知・常滑の協力もあり、煉瓦土管製品大量生産のための工業化が計られました。明治維新の文明開花以降、西洋文化の流入により、煉瓦造りの建物が流行し、煉瓦需要が増えていたのです。
そして遂に、後の人間国宝、金重陶陽が彗星の如く登場するのです。
金重陶陽は、備前焼の名品を作るために、桃山茶陶の名品に注目しました。名品を作るためには名品を観察する必要があり、同じく、桃山茶陶に注目していた加藤唐九郎荒川豊蔵などとも交友を深めていくことになります。
また北大路魯山人イサム=ノグチとの交流は、陶陽に大きな影響をもたらします。北大路魯山人のタタラ造りの製法やイサム=ノグチの現代美術造形美は、陶陽の作品の幅を広げました。
その他にも陶陽の取り組みとしては、優れた茶陶を制作するためには茶道を身につけなければならないと考え、武者小路千家流の家元に弟子入りしたり、窯の研究にも余念がありませんでした。
こうした金重陶陽の創意工夫や熱意は、その他の備前焼作家へと伝播し、備前焼は、日用の美を兼ね備えた日用品として、または、美術品としてワンランク、グレードアップした工芸品として復活を遂げ、現代でも愛されるブランドになっているのです。

写真左:金重陶陽
写真右:イサム・ノグチ