岡倉天心「茶の本」から学ぶ日本の美徳(後編)   

前回の記事に引き続き、岡倉天心「茶の本」について、解説していきます。
まだ前編の記事をご覧になってない方は、是非こちらの記事もご覧ください。

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3.茶室の美学

茶道は、よく日本芸術の集大成だと言われます。
茶室、庭、茶道具、着物、花、書画、料理。 茶道には、日本文化を形作るさまざまな美意識が集約されています。
そして、これらにも「虚」の思想が流れています。
第4章では、茶室について語られます。 茶室は、禅林を模倣したものとされ、「すきや」と呼ばれます。
この「すきや」には、3つの意味があります。
「好き家」
「空き家」
そして「数寄屋」です。
まず「好き家」。 これは、個人的な美的欲求に適うようにつくられた、文字通り茶人の好みに合わせた家という意味です。 茶室のために茶人がいるのではありません。 茶室は、茶人のためにつくられた束の間の仮の住居なのです。 そのため、後世まで残ることを目的とした石造りの建築ではなく、もろさを表現するために、藁の屋根や細い柱が使われました。 永遠とは、物に宿るものではなく、精神に宿るもの。 移ろいゆく時代の中で、一瞬だけ現れる茶人の感性や趣が、精神の中で永遠になるのです。 今という時代を受け入れ、このはかなさやもろさの中に、その時代の生活を楽しむ真実の芸術を見出す。 これもまた、相対性と「虚」の思想なのです。
次に「空き家」です。 茶室をイメージしてみてください。 茶室は、まさに空っぽの空間、「虚」の空間です。 茶室では、屋根や壁そのものよりも、その空間が重要になります。 主人である茶人が、その日の趣を表現するために、掛け物や花などの美術品を持ち込みます。 そして、それ以外のものは、すべて主題となる美術品に集中するために配置されます。 主題となる美術品は茶会のたびに変わり、主人と客との出会いも、その時限り。 そこに「一期一会」の精神が生まれるのです。
最後が、非対称を意味する「数寄屋」です。 この非対称は、不完全性や未完成を象徴しています。 繰り返しになりますが、道教と禅では、「完全」そのものよりも、完全を追い求める過程に力点が置かれます。 真の美しさを見出すことができるのは、不完全なものを心の中で完全なものにできる者だけ。 人生や芸術の活力は、成長の可能性の中にこそあるのです。 非対称に演出された茶室では、その全体の効果を、客それぞれの想像によって完成させます。 心の中で完全なものに仕上げようとする。 これもまた「虚」なのです。
ここから第5章では、「芸術鑑賞」について話が移っていきます。
本文では、琴の演奏を題材に、芸術とは、その芸術に触れる者の心を震わせ、共鳴させるものであると説いています。 芸術は、芸術家による一方的な自己表現だけでは成就しません。 作品と向き合う私たちの心が共鳴し、私たちの心が作品の一部となり、作品もまた私たちの一部となる。 そこに、真の芸術体験が生まれるのです。 これもまた「虚」です。 自分を空っぽにすることで得られる、自他一体の境地。 傑作を理解するためには、身を低くし、作者の一言一句も聞き漏らすまいと、息を殺して待つような姿勢が求められます。 巨匠たちの心のありようを、労を厭わず、注意深く見つめる。 そして、そこから学ぶ。 私たち一人一人の美意識は、これまで触れてきた作品や、経験してきた価値観によって形づくられています。 だからこそ、作者の思いに耳を傾け、自分の中にある価値観を一度「空っぽ」にしなければ、自分自身の美意識をさらに成長させることはできません。
この精神は、茶会にも通じます。 茶会は、主人だけでも、客だけでも成立しません。 主人と客、そして茶室に置かれた道具や花、掛け物。 それらすべてが互いに響き合うことで、一度きりの芸術空間が生まれるのです。

写真:織田有楽斎考案の茶室「如庵(復元)」


4.自然との共生

最後に、第6章「花」と第7章「茶人」から、岡倉天心が訴えた自然との共生について考えてみましょう。
まず「花」についてです。
喜びのときも、哀しみのときも、私たちは花とともにあります。 花を飾って結婚し、人生の節目を祝い、そして死を迎えるときにも花を添えます。 花とともに私たちの人生があると言っても過言ではありません。
しかし、人類は自分たちの都合で花を摘み、気安く廃棄し、その花が存在する自然そのものを蹂躙してきました。 それでも自然は、人間よりも偉大です。 自然から見れば、身勝手で未熟な人間には、至らないところがたくさんあります。 しかし自然は、それを嘲笑うのではありません。 まるで母親が、いたずらをする子供を微笑んで許すように、人間を受け入れてくれている。 人間の卑小さを包み込むほどの、自然の偉大さと優しさ。 ここにも、「虚」という思想を見出すことができるのではないでしょうか。
そんな偉大な自然の中で、人間は死をどのように迎えればいいのでしょうか。
人はいつか死を迎えます。 茶人たちは、その自然に迎える死を「生の完成」として捉えました。 生の完成である死は、至高の芸術なのです。 芸術を生活に生かす者だけが、真に芸術を味わうことができる。
茶会では、どのような状況であっても心の平静を保たなければならない。 会話は、周囲の調和を決して乱してはならない。 着るものの形や色、身のこなし、歩き方に至るまで、すべてが芸術的人格の表現につながる。 自分自身を美しくしなければ、美に近づく資格もない。 そして、 「美しく生きた者だけが、美しく死ぬことができる。」 これが、茶人の生き方なのです。

そんな茶人が極めた茶道とは、 日々の煩雑な暮らしの中に美を見出し、愛でることを基本とする、一種の礼法です。 主人と客とが調和し、互いを慈しむ。 そして茶室という、茶、花、絵画、陶磁器などを素材に織りなす芸術鑑賞の場で、自然という宇宙の偉大さを感じながら、現世の至上の歓びを生み出す。
茶の湯の世界に熱中した戦乱の世の武将たちは、争いに明け暮れる日々にあって、茶室の中では、自分を取り戻すことができたのではないでしょうか。
『茶の本』と同時期に新渡戸稲造が出版した『武士道』が、日本の武士が進んで自分の命を捧げる「死の術」の部分に、意図せず海外からの賞賛が集まったのに対し、 『茶の本』が描いた茶道は、まさに「生の術」の代表と言えるのではないでしょうか。
慌ただしい日常の中で、一瞬立ち止まり、「今」という時間を味わうこと。 『茶の本』が私たちに教えてくれるのは、 「どう生きるか」 という問いそのものなのかもしれません。
人生という荒海の中で、私たちは時に、水平線に浮かぶどの雲にも嵐の前兆を見てしまいます。 しかし、一杯の茶を静かに味わい、自然に耳を澄ませながら、移りゆく世界を見つめる。 その静かな時間の中にこそ、岡倉天心が伝えようとした「生の美学」があるのではないでしょうか。
写真:「武士道」著者・新渡戸稲造