北大路魯山人 「美」の哲学 (前編)   

「料理も芸術」。書家であり、料理家であり、陶芸家であり。その類稀なる感性を後世に残してこの世を去った北大路魯山人。 魯山人自身の発言や関係者による後日談からも、魯山人は人間的にはかなり気難しい人だったようですが、その作品や美に対する意識は、超一流だったことが伺えます。

この記事では、長浜功氏著書「北大路魯山人 人と芸術」及び、コロナブックス編集部編「魯山人でもてなす」の内容をもとに、書家として、料理家として、陶芸家としての魯山人の美意識、ものの考え方に迫ります。


1.書家・魯山人

まずは、魯山人が「書」に出会うまでをご紹介します。

魯山人は、自身の出生と幼年期、少年期となると「甚だあいまいだ」というように資料もあまり残っておらず、本人も生前、多くを語らなかったようです。
1883年に京都上賀茂で生を受けるも、魯山人が生まれる前に父親は亡くなっていました。
父親のいない魯山人は、母親も蒸発し、幼い頃から養子として農家を転々とし、行く先々の家で貧困と虐待の辛い生活を経験しました。
5歳になった魯山人は、京都上賀茂で木版を手掛ける福田家に引き取られました。福田家に住み込みながら、丁稚奉公の生活をする内に、ある日、とあるお店の看板として掲げられていた竹内栖鳳(たけうちせいほう)の一筆書きの絵をふと見かけ、自分の美的感覚に気づくのでした。

写真:竹内栖鳳の一筆書き(栖鳳習画帖より)

魯山人は、画家になることを夢見ますが、とても画学校に入る経済的余裕もなく、竹内栖鳳に弟子入りするのも気が引け、独学にしても画材の値段が高く、悶々とする日々を送っていました。
そんな中、養家が木版を営む家だったために、自らも篆刻に励み、書にも力を入れるようになりました。そして、初めて出展した書のコンクールでいきなり入賞したのです。 この入賞を契機に、魯山人は自信を深めました。
丁稚奉公で稼いだお金のほとんどは、書籍購入に費やし、書の研究に励みます。その後、日本美術展覧会、書の部に出品すると、なんと一等賞となり、有栖川宮総裁から表彰される結果となったのです。魯山人21歳の時でした。
書の腕と篆刻の腕を生かし、印刷業(版画の下書き)を起こした魯山人は、結婚を経て、収入が安定するようになるも、不倫など女性問題から、朝鮮へ雲隠れすることにしました。
雲隠れ先の朝鮮でも印刷業を起こし、成功した魯山人は、得たお金で朝鮮や中国の各地を旅行しました。歴史ある書や美術品に触れて、買った書籍を読み漁ったこの頃が、魯山人にとって最も勉強し、研究に没頭した時期と言えます。
魯山人は、書を読むことで、書で表現されているのは自然であり、哲学であり、倫理だと知り、その世界観を存分に体現していったのです。
魯山人がこれほどまでに芸術家として成功できたのは、持って生まれた感性もさることながら、書籍や美術品を購入して探求、研究する努力に心血を注げたからだと思います。
なぜ、魯山人はこれほどまでに「美」を追求できたのでしょうか。
幼少期、農家に養子に出され、貧困と虐待の辛い毎日の中で養母に連れ立って訪れた上賀茂神社の真っ赤なツツジを若干3歳の魯山人少年は、ハッキリと覚えていたようです。辛い生活を一瞬でも忘れさせてくれるように映えるツツジの美しさが魯山人少年の心の中で大きな存在となり、その後の人生の道標になったと、のちに語っています。

左:上賀茂神社
右:ツツジの花


2.料理家・魯山人

自らも「食い道楽」と認めるほど、食に対しては人一倍の関心を寄せていた魯山人。幼い頃の貧しい生活を経験した魯山人にとって、若かりし頃の夢は、美味しいものをお腹一杯食べることだったそうです。 ここからは、料理家としての魯山人に迫ります。

朝鮮から帰国してからも、魯山人の書家、篆刻家としての評判はとどろき、近江商人の豪商に招かれ、食客として豪商の家を渡り歩くようになりました。この頃の豪商は、優秀な人を自宅に招き、世話をして、滞在してもらうことで自身の見識を深める風習があったのです。ここで魯山人は数々の財界人や文人、芸術家と出会い、語り合い、その見識を更に深め、人脈も築いていきました。そしてこの頃の豪商は美食家が多く、美食家・料理家としての魯山人の行く末を決定付けたと言えます。
逗留は、近江だけにとどまらず、行く先々の紹介もあり、京都、福井・鯖江、金沢へと移って行きました。
京都、内貴清兵衛との出会いでは、自分で新鮮で旬な食材を仕入れ、その食材の良さを活かす経験や、のちに「料理と美は、両立してはじめて最善の馳走とういことになる」と語るように、内貴清兵衛との出会いにより、「料理も芸術」という哲学を持つようになりました。
料理を味わう空間そのものの演出も重要視していた魯山人ですが、料理を芸術たらしめる最たるものとして、器を挙げていました。
それは、金沢、細野燕台の家に滞在していた際に、食卓の食器を全て燕台自身が作成したと聞き、驚いた経験によるところが大きかったようです。
魯山人はよく、「食器は料理の着物」と表現しました。

「良い料理には良い食器が入り用で、良い食器には良い料理が要求される」
「誰しも1番美味しいのは家庭料理であるが、料亭の料理人は、お客様の驚きを考えながら器を選び、料理を盛り付けている。その演出の仕方にこそ、日常を離れた料理の味わいがある」
「料理をつくる者は、つとめて価値のある食器に関心を有すべし」

ここ金沢で作陶も経験し、自らの作陶の可能性を発見したのです。
東京に戻った魯山人は、印刷業の傍ら、古美術商としても成功すると、書画、骨董を眺めながら魯山人の手料理を振る舞う「昼食会」を行うようになりました。この昼食会がのちに、美食倶楽部星岡茶寮という活動に繋がっていくのです。
魯山人は、生前、美味しいものを食べる、美味しいものを追求することについて次のように言及しています。
「見識ある食の摂り方は心身を健全に導くようである。人間を豊かにすることを否めない。われわれが料理に関心を寄せる点はここにもある。美味しい美味しいの連続で、舌と心を喜ばせ、それが心身の健全に役立つ結果を見ては、並々の関心ではすましてはいられない。」
「自己欲するところの美味しいものを食い続けようとする意欲は、一概にぜいたくなどいう平凡な一語に動かされてはならない。平凡なやからがいうところのぜいたく食いをつづけ、心身の健康をつくり、頭脳をつくり、人一倍優れた仕事ができえるならば、美食は経済の本旨に逆らうものではないのではないか。」

以上、今回は、書家、料理家としての北大路魯山人を中心にご紹介いたしました。
次回、後編では、陶芸家・北大路魯山人を中心にご紹介したいと思います。
乞うご期待ください。