
弟子である尾形乾山とともに京焼を確立した名工です。
ただ、その生没年は不明で、その生い立ちや経歴は定かではありません。また仁清に関連する記録や史実も、弟子・尾形乾山が残した「陶工必用」など限られた記録しか残っていません。
その謎に満ちた野々村仁清の生涯を描いた邦光史郎氏の小説「色絵曼荼羅 陶工野々村仁清伝」が面白かったので、紹介したいと思います。NHK大河ドラマなどで主人公となる戦国武将や明治維新の志士に関する小説は、多くありますが、陶芸家を題材にした小説は、あまりないのではないでしょうか? あくまでもフィクションの物語ですが、この物語の流れに沿って、西田宏子、岡佳子監修の「仁清 金と銀」の内容も補足しながら、 仁清の残した足跡に迫りたいと思います。
この記事を最後までご覧頂くと、色絵食器を生み出した野々村仁清の功績が分かると同時に、あなたも色絵食器を見る目が変わること間違いなしです。
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1.丹波の壺屋・清右衛門の修行
仁清が生きた時代は、豊臣秀吉が没し、徳川家康が江戸幕府を開く大変革期とされますが、物語も全体を通じて、関ヶ原の戦いや大阪の陣など、豊臣・徳川両家の覇権争いの動きに合わせて展開していきます。 太閤秀吉が没してのち、 古田織部をはじめ、利休を師と仰いでいた大名たちは、もともと利休に切腹を命じた秀吉を恨んでしたところがあり、秀吉に代わって政務を執った石田三成への不満も重なり、豊臣から離れる大名が増えていきました。
徳川家康の発言力が大きくなり、今まさに関ヶ原の戦いが始まろうとしていた時、仁清は、壺の納品のため訪れた京都のたなで、七宝に出会い感動しているのでした。ちなみに七宝とは、古代エジプトに起源をもつ、金・銀・銅などの素地にガラス質の釉薬をかけて焼き上げる装飾品です。 当時、最先端の茶碗は、京都に集まっていました。一方、丹波の壺屋・仁清は、土色の壺や甕などの大物ばかりを作っていて、色彩豊かな茶碗に憧れるばかりであり、そんな中、訪れた京都で、もう丹波へは帰らない、京都で修行しようと決意するのでした。
京都・東山清閑寺の音羽屋のもとで傭われ、その後、摂津国にいる朝鮮陶工・仏阿弥の存在を知り、摂津へ向かうのでした。 豊臣秀吉による朝鮮出兵は、朝鮮から陶工を連れ帰り、日本の陶磁器技術を飛躍的に発展させました。朝鮮の人にとっては悲しい歴史であり、秀吉による無謀と言える朝鮮出兵、唯一の成果は日本陶磁器界の発展と言えるでしょう。仏阿弥は、朝鮮より連れ帰られた陶工の1人でした。
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仏阿弥のもとで修行をした仁清は、轆轤の名手となりました。朝鮮半島譲りの薄手の焼き物を焼ける仁清の技術は、その後の人生において、行く先々で重宝されるのでした。
程なくして、師である仏阿弥が重い病のため、この世を去ると、仁清は、一路、瀬戸を目指します。 当時、瀬戸焼は、六古窯の一つでありながら、その他の常滑焼や備前焼、越前焼、信楽焼、丹波焼とは、明らかに異彩を放っていました。 縄文土器から壺や甕などが焼かれるようになりましたが、土器から脱し、陶器と呼べる品が焼かれるようになったのは、百済から仏教が渡ってから以降となります。その後、奈良三彩や平安時代の緑彩なども出現しましたが、宋から伝来した陶磁器には及ばず、宋の陶器に憧れて渡航した加藤藤四郎により、日本初の有釉陶器が誕生するものの、日本陶器の発展には繋がりませんでした。 室町時代に明との貿易が再開し、陶器が盛んに輸入されるようになると、闘茶に代わる茶の湯では、明から輸入された天目茶碗や青磁などの茶道具が珍重されるようになり、将軍・足利義政に仕えていた、志野宗信が志野焼を考案し、加藤藤四郎の流れを汲む、瀬戸の陶工が瀬戸天目を焼くようになったのです。 そのような歴史からも瀬戸地方では、加藤藤四郎が元より持ち帰った釉薬の技術が、根付いていたのです。
更に瀬戸から距離にして20キロ程しか離れていない美濃では、瀬戸焼とは別に美濃焼が起こりました。古窯・瀬戸の同業者間の確執や戦乱から逃れるため、加藤宗右衛門や加藤市左衛門が美濃で作陶を始めたことに起源を持ちます。
仁清は、その美濃焼の評判を聞きつけて、次なる修業の地を美濃に選ぶのでした。 美濃で修業をしていた仁清は、織部焼を京で作陶し、広めるため、古田織部に推挙されます。古田織部は、当時、千利休自刃後に、利休の侘数寄とは正反対な、名物茶器を品評し、贅沢の限りを尽くす「大名茶」の茶堂として、各界に絶大な人気を博していました。そんな古田織部の目に留まった仁清ではありましたが、程なくして古田織部は、大阪夏の陣のあと、豊臣方との内通者と疑われ、自刃に追い込まれます。
仁清もまた、美濃の土と京の土の違いに苦しみ、京で美濃と同じ織部焼を作る難しさに直面していました。 それでも仁清の轆轤の腕は、評判を呼び、小堀遠州と金森宗和は、京都・鷹峯の本阿弥光悦の元を訪れた際、光悦より、粟田口・三文字屋・仁清の噂を耳にするのでした。
写真右:織部焼
2.金森宗和との出会い
美濃焼を京都で売る三文字屋に身を寄せていた仁清でしたが、次第に色鮮やかな押小路焼に見せられ、一文字屋へ身を寄せることにしました。 押小路焼とは、もともと外国貿易の産物でした。当時の京都は、現在の木屋町に流れ込む高瀬川という運河を角倉了以が掘削したことで、この高瀬川が伏見港、淀川、大阪湾へと繋がり、明や呂宋、ポルトガル、オランダなどからの珍しい織物や器物、香料や薬品などが京都に持ち込まれるようになっていたのです。香料や薬は、色鮮やかな容器に入っており、新しい釉薬や七宝なども流れ込んできました。この背景もあり、唐人から色釉の秘伝を授かった初代一文字屋助左衛門が、京都で始めた赤、黄、黒などの色彩を盛り上げた交趾(コーチ)焼風の陶芸品として確立されたのが、押小路焼でした。
物語の中で、仁清は、一文字屋の色絵の秘伝を盗もうとしていたことを気取られ、追い出され、その後、三文字屋の窯を借りるかたちで独立しました。
先にも述べた宗和は、仁清を見出し、ことあるごとに様々な茶会に仁清を同席させ、また色絵の研究について、経済的支援をするのでした。 宗和は、太閤秀吉の茶堂としての地位を築いた千利休のように、朝廷内での茶堂としての絶対的権威を手に入れたいと考えていたはずです。そのためには、利休が楽茶碗を得たように、今までのありきたりな茶器を使っていたのではいけない。宗和流のそれまでに全く類のない、新発明、新工夫による茶器が入用と考えました。そこで目をつけたのが仁清の色絵です。
その後、仁清は七宝をヒントに色薬の調合を会得し、自在に色を操れるようになりました。 色を操るには、色薬の調合だけでなく、窯の中の酸素濃度も重要です。 同じ鉄釉の成分であっても酸素濃度の低い還元焼成であれば、青や緑に発色し、逆に酸素を十分に取り入れて焼き上げる酸化焼成では、黄や赤に発色することを発見しました。 緑の発色には、鉄だけでなく銅を含めることは古代から知られていましたが、紫の発色には、鉄にマンガン、コバルトを用い、マンガンの分量が多くなれば、黒になります。このように、各色薬の元素の分量によって色を操りました。 ここまで紹介した赤、黄、青、緑、紫、黒は、いずれも鉄と鉛を含みますが、白は鉛を含みません。鉛を含まない代わりに灰などのアルカリ成分を含む長石やカオリンを混ぜたものと思われます。
写真右:金森重近(宗和)
3.仁清御室焼の誕生
御室窯では、京狩野系の絵師の下絵や大和絵風、金銀をふんだんに使った蒔絵風の作品まで様々生まれました。 柿右衛門の赤絵よりも先に、仁清の金銀彩をはじめとした色絵は世に出たとされます。 仁清は、京都で宗和をはじめとした文化人と交流する中で、明の品、殊更、金襴手の磁器や呉器茶碗などに触れる機会が多かったものと思われます。 また、京都に集結していた、陶芸以外の絵画や漆芸、染色の工芸職人との交流も仁清の金銀彩、色絵を可能にしました。 蒔絵のように金粉を蒔く技法、絵画のように金箔を貼る技法。彫刻の截金の技法などなど。
実際に仁清の作品の中には、それら工芸の職人の手を借りたと思われるものも多く、上絵を狩野派の絵師に描かせたという記録もあります。
仁清は、絵画を立体の陶器に巻きつけるように、従来の茶壺や茶入れの造形の常識を覆しました。また絵画を巻きつけることによる継ぎ目の違和感も金彩の雲でぼかすという意匠の工夫も取り入れ、こうして仁清は、陶器というキャンバスの上で3次元の絵画を表現する挑戦を行なったのです。単に色絵を横からだけ見るのではなく、上から見ても底から見ても広がる景色を体現しました。
仁清死没後は、御室焼は、急速に衰え、息子・二代目仁清は、尾形乾山の窯に細工人として引き取られたとされます。当時、仁清とともに京都の二大陶工と謳われた弟子の尾形乾山は、仁清の技法から多くのことを学び、その内容は、「陶工必用」に記録として残っています。御室焼自体は閉じられましたが、仁清が生み出した京焼は、その後の江戸時代において、絶大な人気を博するのでした。







