千利休と長次郎 桃山時代に起きた焼きもの革命   

桃山時代。それは、焼き物の世界に劇的な革命をもたらした時代でした。
戦国時代の終わり、日本には南蛮文化が流入し、 社会も、経済も、そして人々の精神も、 大きく「自由」へと解き放たれていき、大きな転換点を迎えました。
その大変革期の中心にあったのが、茶の湯でした。 茶室の中では、武士も僧侶も町人も、身分は関係ありません。 戦国武将と商人が同じ空間で茶を飲み、同じ器を手にする。 茶の湯は、当時もっとも流行した遊びであり、 同時に、政治や経済にも深く関わる文化でした。
そして、この茶の湯文化を中心として、 日本の焼き物の歴史を大きく変えた人物が、
千利休であり、楽吉左衛門初代・長次郎であり、古田織部でした。
こんにち、我々が、バリエーション豊かな器で食事ができるのは、 この時代があったからと言っても過言ではないかもしれません。
今回の記事では、中村修也氏著書「黄金文化と茶の湯」と竹内順一氏、渡辺節夫氏著書「桃山文化の大爆発 千利休とやきもの革命」の内容をもとに
まずは、焼き物革命の背景を説明したあと、
千利休と長次郎が起こした茶の湯の革命について、
最後に美濃焼と古田織部の柔軟なスタイル 
について解説したいと思います。

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1.桃山時代の焼き物革命

まず、中世と近世の焼き物の違いを見てみましょう。
それまでの中世の焼き物は、主に農民の生活の道具でした。 甕や壺、すり鉢など、生活のための器です。
焼き物の色も、土の色に近いものが多く、装飾もあまりありませんでした。
ところが近世に入ると、焼き物の世界は大きく変わります。
変化は大きく三つです。
一つ目は、 少量生産から、大量生産へ移行したこと。
二つ目は、 単色ではなく、複数の色彩を持つ焼き物が登場したこと。
三つ目は、 甕や壺だけでなく、豊富な飲食器が作られるようになったこと。
この変化を経て、焼き物は農民のための道具から、 町衆や武将、大名が使う文化的な器へと変化していったのです。
まず一つ目の変化、大量生産を支えたのが、 窯の技術革新でした。
中世の窯は、丘陵に穴を掘って作る「穴窯」でした。
これが近世になると、山の斜面に沿って、上へ上へと連なる 巨大な窯が登場します。いわゆる「大窯」や「登り窯」です。
この大窯や登り窯では、摂氏1200度を超える高温で焼くことができました。 その結果、硬くて丈夫な焼き物が生まれる一方、温度が高すぎて、 従来の釉薬が器に定着しなくなる事態が発生しました。
そこで陶工たちは、釉薬が高温で流れ落ちないよう、さまざまな鉱物を混ぜる工夫をしたのです。
すると、これまでにない色が生まれ、 2つ目の変化である複数の色彩を持つ焼き物が登場したのです。
黄土から生まれた黄瀬戸
長石を使った志野
鉄を急冷して生まれた瀬戸黒
こうして、桃山時代は日本陶芸史上、かつてない色彩の時代になりました。
特に大きな革命が起きたのは志野焼です。 それまでの焼き物では、白い器を作ることが難しく、 器に絵を描くこともほとんどできませんでした。 模様をつける方法は、器を引っ掻いたり、 スタンプのような印花紋を押すくらいでした。
しかし志野焼は違います。 長石釉によって白いキャンバスのような器が生まれました。 そしてついに器に絵を描くことができるようになったのです。 この流れは、後に有田焼へとつながっていきます。

こうして、窯の技術と釉薬の技術が革新したことで 薄くて硬く、色彩豊かな器が登場し、茶の湯文化も奏功して、 焼き物は、3つ目の変化である、町衆や武家にも受け入れられる文化的器 へと進化していったのです。
特に茶道具は、単なる道具ではなく、当時は、財宝と同じ価値を持つ 権力の象徴でした。
ここに目を付けた織田信長や豊臣秀吉は、茶道具を家臣の功績に対する 褒美としたり、茶の湯自体を家臣団統率や商人たちとの交流の道具に 用いたのです。これが茶湯御政道です。

写真左:登り窯
写真右:黄瀬戸・志野焼・瀬戸黒


2.利休と長次郎の茶の湯革命

さて、焼き物革命の背景をご紹介したところで、 ここからは、更に茶の湯文化に革命をもたらした千利休と長次郎について 解説します。
天正14年頃、突如として、茶会から「唐物」が消えました。 それまでの茶会は、中国から伝わった古い名品を鑑賞する場でした。 天目茶碗など、何百年も前のアンティークを楽しむ世界です。
しかし利休は、この茶会を変えます。 高麗物和物、つまり当時作られている現代作品を使い始め、 茶の湯を古美術の鑑賞会から、前衛的な芸術空間へと変えたのです。

ここで重要なのが利休の目利きです。
目利きとは、まだ価値がないと思われているものの中から 本当の価値を見つけ出すことです。 器の作り手は、自分の作品を作ることに誇りを持ちます。 しかし茶人は、選ぶことに誇りを持っていました。
中でも利休の目利きは、まさに命を懸けた目利きでした。 のちに、利休が切腹を命じられる秀吉との確執は、諸説ありますが、 もともと天目など古くからの作品を好んでいた秀吉と 今焼という現代作品を流行らそうとしていた利休との 器に対する価値観の違いが原因のひとつであったとも言われます。
ただ利休の目利きは、決して独りよがりではなく、利休が選んだものは、何年もの時を経て、渡る人が代わるにつれても皆、素晴らしいと評価するものであり、だからこそ、人に渡るにつれて、価値がどんどん上がっていったことからも、その理論や審美眼は、確固たるものであったと言えます。
その茶人・利休が目を付けたのは、 のちに「一楽、二萩、三唐津」と茶道具として一級品と名声を極める 楽茶碗を生み出した楽吉左衛門初代・長次郎でした。
当時の流行は、薄手で美しく均等に成形された、まさに天目や高麗青磁のような器でしたが、 楽茶碗とも楽焼ともいわれる器は、真逆で、手づくねで作られた、 厚く、素朴な器です。 しかし既成の品を否定したことに意義があり、利休はそこに新しい美を見たのです。
この長次郎の厚く、素朴な造形技術は、実は非常に高度なものです。 器は、面の組み合わせで形が作られます。
縦、横、斜め。
あらゆる方向から見て均整が取れていなければなりません。
長次郎は、それをすべて手づくねで作りました。 轆轤ではなく、手で形を作る。 つまり器の形そのものが、彫刻的な造形になったのです。
芸術性がある一方で、利休は、それまでの茶道具よりも 更に茶道具としての実用性を長次郎の器に求めました。 利休と長次郎は、「使われる」という本来の機能を果たす規制の中で美を表現する「用の美」を始めて体現したと言えるでしょ。

写真:楽茶碗


3.美濃焼と古田織部

焼き物革命が起きた桃山時代を代表する焼き物として、 美濃焼が挙げられるでしょう。この頃の美濃焼は、「美濃桃山陶」とも 称され、現在でも評価の高い作品が多いです。
桃山時代の政治、経済、文化の中心地は、京の都であり、 京は、焼き物の巨大な市場でした。 「せともの町」には、全国の焼き物が集まりました。 美濃焼、唐津焼、伊賀焼、信楽焼。 さまざまな産地が競い合い、様々な焼き物が 茶の湯の席に並びました。
特に激しかったのが美濃焼と唐津焼の争いです。 唐津焼は、鉄釉一色の渋い器で、その野性味が人気を博しました。 一方、美濃焼は、流行しているものなら何でも取り入れ、 競合相手の唐津焼や伊賀焼、信楽焼の模倣も行いました。 美濃唐津、美濃伊賀、美濃信楽と呼ばれるものです。 柔軟に模倣しながら 新しいスタイルを作り出していく一方で独自のスタイルも確立します。
焼き物革命の中で、様々な色彩表現に成功した 志野焼、黄瀬戸、瀬戸黒の例については、既に述べましたが、 これらは、全て桃山時代に生まれた美濃焼です。
豊臣秀吉による朝鮮出兵により、唐津にもたらされた登り窯の技術を参考にして、緑に発色する織部焼も生み出しました。 織部焼は、利休の一番弟子であり、利休切腹後に茶道会を引っ張った 武家茶人・古田織部が指示してつくらせたとされる焼き物です。

緑の発色という面でもそうですが、織部焼は、それまでの焼き物の常識を覆しました。 それは、左右非対称の造形です。 長次郎以前の器は、轆轤で作る、左右対称の形が常識であったのに対して、 織部は、大胆に歪みを加え、アシンメトリーな造形を生み出しました。 しかし、それは、単に歪めただけではなく、長次郎と同じく、造形としての基本を損なうことなく、その器の空間に織部独自の精神世界を注ぎこんだのでした。
織部の流行は長く続きませんでした。 江戸時代に入ると、織部焼の生産は急激に減り、 流行は強烈でしたが、同時に一過性でもありました。 美濃焼自体も同じく、江戸時代に入ると志野焼、黄瀬戸、瀬戸黒なども 京焼や萩焼の人気に押され、焼かれなくなりました。
それでも、この時代に生まれた精神は日本文化に大きな影響を残したと言えるでしょう。
戦国時代という激動の時代の中で、 既存の価値観からの解放が起きました。
政治も、経済も、文化も、そして、器の形さえも。 轆轤という常識から解放され、手づくねによって 個人の精神が器に表現される。 ここに工芸と芸術が融合した新しい世界が誕生しました。
桃山文化とは、単なる華やかな文化ではありません。 それは価値観の革命であり、 その中心にあったのが茶の湯と、焼き物だったのです。

写真:織部焼